このブログは、サルコイドーシスや難病の仲間に向け書いています。
ここでは、難病になって4年の私が、難病や老いについて考えた事など 経験も交えて書いています。
初めまして、モモタ侍と申します。
4年前、突然 指定難病のサルコイドーシス(サ症)になりました。
サ症*は、体中にできる肉芽(にくげ)と言うできものが、体の正常な機能を妨げる病気です。
症状は人それぞれですが、私の場合、痛み、しびれ、疲れ が辛いです。
*サ症の詳細は、難病情報センターHP→ さ行→84サルコイドーシス をご参照下さい。
難病・生きる
サ症を発症して4年が経過しました。
その間、数えきれないくらいの体調の波(良い時、悪い時)を繰り返してきました。
幸い、昨年のステロイド治療以来、体調はかなり安定しています。
しかし、安定したなりの体調の波はあって、辛い時は不安になる時があります。
ステロイドと言う、”最後の一手”を打った今、サ症が増悪しても、もう打つ手はない?。
薬の副作用が強く出て、ステロイドが使えなくなったらどうなるだろう? などです。
恐らく、このような気持ちは、この先も一生繰り返すのだと思います。
一方で、このような状況が続くことに慣れて来た部分もあります。
それに伴って、短気で、神経質だった性格も、少しずつ変わっていくように思います。
難病になった当初、自分の運の悪さを恨み、怒り、嘆き そればかりの時期もありました。
そんな思いが、今でもフツフツと湧き上がる事は時々あります。
しかし「まあ、細かいことは、どうでも良いか」と思える自分も大きくなりました。
例えば、私が参加する、市の難病者・障害者当事者委員会で「差別」について議論する事があります。
私も難病の当事者として、多少なりとも差別的なモノを感じ、経験する事があります。
一方、少し形は違っても、病気になる前の社会/会社生活でも同じような経験はありました。
以前は、健康だったので、そう感じにくかっただけに思えたりもします。
私特有の感じ方かもですが、結局、多数派の原理、人による部分が大半とも考えています。
もし、世の中の大半の人がサ症であれば、病気による差別は感じないでしょう。
逆に、健常な人が差別される世の中になるかもしれません。
また、差別をする人/しない人は、どんな状況でも、したり/しなかったりするのが私の経験です。
する人との接触を極力減らし、しない人に囲まれて暮らせば、幸せに暮らせるかもしれません。
最近、身内の老いを見ていると、多少の知性があるだけで、人も他の生き物と変わらないと感じます。
社会的地位のある人も、老いと共に社会性が弱くなり、常識的な部分が薄れ、本来の理性むき出しになっていきます。
最初は、その状況を、情けなく、さげすみ、そして悲しい目で見ていました。
しかし、最近では、自分も含めて ”こんなものか” と思えるようになりました。
言葉使いが正しいのかわかりませんが、物事を少し大局的に見れるようになった気がします。
リビングウィル・老い
3年程前に、市の難病相談支援センターで、リビングウィルの講習会を受けました。
治療法の無い難病になり、年齢的にも役に立つかも?と思ったのがキッカケでした。
研修前、リビングウィルとは、延命治療や尊厳死と言ったワードと同意と理解していました。
しかし、私の受けた研修のリビングウィルのポイントは、以下の点で少し違っていました。
- (死に方でなく)今から死までの間、いかに生きるかを考える。
- 一方的な宣言でなく、宣言に至るまでの作成過程が大切。
- 家族、医師、支援者と話し合い、納得し合いながら作成する。
リビングウィルは延命措置の要否だけでなく、自分の誕生~死までの物語作り。
「死までをどう生きたいか」を、意識を無くす前に伝えるためのツールと言う内容でした。
テキストに「人は、人と人の間に生まれ、人と人の間に生き、人と人の間で死んでいく存在」とありましたが、まさにその通りだと思います。
老いと共に、常識や社会的な部分が薄れていく、と言う話を心療内科の先生から聞きました。
身内の例でも、老いにより社会ルールを軽視し、結果、ご近所と問題が発生した事がありました。
本人は「好きにさせてくれ」と言いますが、社会の為、本人が晩節を汚さない為、放置は出来ません。
その結果、身内の中で亀裂、葛藤や衝突が起こります。
「老い」に係わる一番難しい部分だと思いました。
生死に係わる話は、簡単では無い、と実感する事は、他にもあります。
「いつ死んでもよい」と言ってる人も、その多くは、それが身近なものになると、極度に恐れます。
身内を例にとっても、尊厳死協会に加盟して、会費も払って、延命は不要と高らかに宣言していた。
しかし、腎機能が悪化し、1ヵ月ももたないと言われ、あっさり透析(延命措置)を行いました。
身内(私含め)も、二つ返事で同意し、尊厳死は有名無実なものとなりました。
と同時に、これが生と死に係わる現実なのだと思います。
また、延命措置については、具体的に決めないと機能しないことも研修で習いました。
例えば、私のサ症を例にとると、以下のようになります。
サ症は、悪化して肺が固くなると、最悪、呼吸不全を起こすケースがあります。
その際、措置方法別に、下記1~5の「する/しない」を決めておかないと対処できません。
- 呼吸不全を改善する薬剤投与や酸素投与治療をする/しない
- マスク式人口呼吸器を使って酸素吸入をする/しない
- 2で改善しない場合、口からチューブを入れて酸素吸入をする/しない
- 3で改善しない場合、気管を切開してチューブを入れて酸素吸入する/しない
- 4で改善しない場合、どうするか?
4.については、患者の痰を吸い出す時、痛みの表情を浮かべる時があり介護者にも辛いとの経験談が書かれていました。
そんな事も想定して、事前に話し合いをしておく必要がある訳です。
生死に係わる議論は、関係者全員で時間を掛けて、深く、具体的でないと役に立たない。
一方で、生きてる時に、そんな議論が、現実問題として可能か? 難しいなと思います。
また、それ以前に、緊急であれば、救急車を呼ぶ/呼ばない の判断も必要です。
救急車を呼ぶと言うことは、イコール延命措置をすると言うことにつながります。
身内が目の前で苦しんでいるのに、救急車を呼ばないのは、私には不可能に近く思えました。s
最後に
サ症と言う難病になって、一度きりの人生での大きな経験と思えることもあります。
もちろん、難病にならなければよかった。
もし、ステロイドが効かなければよい経験とも思えないだろう。
いろいろな気持ちが、毎日渦巻いています。
その中で、私に関して、確実に良かったと言えることは、
- 物事を前向きにとらえる習慣がついた
- 人との比較でなく、自分の価値基準でモノや人を図れるようになった。
- 以前より、少し大局的に、おおらかに物事を判断できるようになった。
でしょうか。
最後まで読んで頂きありがとうございました。