このブログは、サルコイドーシスや難病の仲間に向け書いています。
ここでは、難病を発症し、長い海外生活から心身ともボロボロになり帰国した私。
その私を、迎え入れ・支えてくれた堺市の魅力について、私の体験・感想に基づき書いています。
初めまして、モモタ侍と申します。
4年前、突然 指定難病のサルコイドーシス(サ症)になりました。
サ症*は、体中にできる肉芽(にくげ)と言うできものが、体の正常な機能を妨げる病気です。
症状は人それぞれですが、私の場合、痛み、しびれ、疲れ が辛いです。
*サ症の詳細は、難病情報センターHP→ さ行→84サルコイドーシス をご参照下さい。
京都出身の私は、大阪→フィリピン→ロシアと巡って、今、堺市(大阪府)に住んでいます。
住み始めて間もなく4年になりますが、以前は全く縁の無い街でした。
しかし、海外で難病を発症し、帰国したのが、この街でした。
病気の辛さ、10年ぶりの日本、仕事環境になじめず、どん底だった時期を支えてくれました。
病気を少しずつ受入れ、前を向くことが出来たのも、この街のおかげと思っています。
この記事が、サ症や難病の方々の何かのお役に立てれば幸いです。
私の居場所 難病になって
久々の日本、失った健康、その上、病気を増悪させた私に、居場所はありませんでした。
群れるのが得意でない私の居場所は、30年の会社勤めの間に、会社に限られていました。
病気・休職で、唯一の居場所を一瞬で失いました。
居場所も無いまま、たくさんの時間が出来ました。
痛みや疲れの続く辛い自覚症状、痛んだ心、茫然自失の中、ブラブラ散歩を始めました。
家の近くには、大阪刑務所があります。
この刑務所は、日本最大で2番目の収容力を持ち、西日本では最大規模だそうです。
いつも整然とし、それでいて温かみのある場所。
いつしか、その外周は、私にとってお決まりの散歩コースになりました。
刑務所が移設された当初は、周辺住民の反対もあったと読みました。
しかし、今は、地域の人々やこの街に溶け込み、一体化しているように見えます。
刑務所の白く、高い壁は、痛んだ私の心が、あるべき方向へ進むのを見守ってくれているようです。
サ症の仲間相談員
難病登録をしたきっかけで、市の難病者支援センターから、機関誌が送られてきました。
いろいろな難病、もっと大変な病状で苦しんでいる仲間がいることを知りました。
同時に、それを支える地域の仕組みがある事も知りました。
自然に支援センターの研修や取組みに参加するようになりました。
多くの難病の仲間が前を向いて生きてることを知りました。
苦しんでいるのは自分だけではないと、自分の難病を受け入れていくキッカケになりました。
サ症の仲間相談員にもなり、同時に、ここが私の最初の居場所になりました。
日本語ボランティア
病気に少し慣れ始めた頃、在留外国人に日本語を教える市の研修会に参加しました。
10年間の海外生活を支えてくれた仲間に、何か恩返しが出来ればとの思いでした。
その流れで、一つの日本語ボランティア教室に参加する事になりました。
組織(学校、会社)で生きて来た私にとって、ボランティア教室は、新しい環境でした。
上下関係もなく、利益目的もない、常識的な礼節とフラットな人間関係があるのみ。
この環境に、どう適用すれば良いか、どう振舞えば良いか、しばらく戸惑いました。
私の参加する教室は、在留外国人の日本での居場所になることが目標です。
日本語を教えるスキルは全然ですが、事務仕事のサポートは会社での経験が少し役に立ちます。
最近は、日本語に堪能な実習生の他、日本語も初めての、そのご家族の参加も多くなっています。
今では、ここもまた、居心地の良い、私の居場所の一つになっています。
難病・障害者 当時者委員
難病支援センターの紹介を受けて、市の障害者・難病者の当事者委員に応募しました。
ここでは、いろいろな障害や難病を持った各委員が、月に一度集まり、話し合いを持ちます。
当時者目線で、誰もが住みやすい、社会に向けて話し合い、行政へ提案していく場です。
私のような難病だけでなく、身体、精神、神経など いろいろな部分に疾患を持つ仲間が集まります。
それを個性と捉えるならば、とても個性的で、多様な集まりです。
そこでは、毎回、眼から鱗が落ちるような、新しい発想、モノの見方、情報があります。
以前、支援センターの研修で、難病になり、組織での蓄積を失いどん底を経験したこと。
その後、人との比較が気にならなくなり、自分が正しいと思う生き方に舵が切れた話したこと。
を、話したところ、講師の方が、それは、相対的→絶対的価値観にシフトした為で、絶対的価値観は、人間としてどうあるべきかと言った、人間性を高める上で非常に重要な要素です、と教えてもらいました。
当時者委員会の仲間は、この絶対的価値観を磨いて来た達人たちの集まりだと思います。
このように、サ症発症から4年経った私は、堺市の中に、いくつかの居場所を作る事が出来ました。
どうやら私のサ症は、一生続きそうですが、自分の居場所がある限り、前を向いて、充実して残る余生を楽しく過ごせそうな気がしています。
堺市の概要
堺市は、人口 約83万人(日本で14番目)の政令指定都市です。
お隣は大阪市で、関西空港にも近く、地理的に便利な位置にあります。
和歌山県にも近いため、気候は1年を通して暖かく穏やかなです。
観光や文化の面では、一昨年、仁徳天皇陵などの古墳群が、世界遺産になりました。
また、昔は南蛮貿易で栄えた、歴史のある町で、今もそのなごりを感じます。
金属加工や包丁など、匠の技(独自の技術やノウハウ)を持つ会社がたくさんあります。
匠の技の為か?美味しく、値段もリーズナブルな(仏、伊など)レストランが点在します。
堺東駅(南海 高野線)周辺は、市庁舎、金融、百貨店、商店街など ギュッと詰まっています。
また、堺市の物価は、お隣の大阪市に比べて少し安く感じます。
また、土地が余っているのか?無料や安くコインパーキングが多く車移動にも適しています。
街の歴史
堺市は日本の歴史において、商業の中心地として大きな役割を果たしてきました。
この背景が堺の町、人を形作っているように思います。
商人の町と千利休
堺市は歴史的に商売の町です。 そう感じることがよくあります。
コロナ禍になり、自宅を簡単に改良して小商い(こあきない)をしている店をよく見ます。
堺の人と話していると、合理的でリーズナブルな考えを持った人達が多く感じます。
約500年前、堺商人は、日本注で活躍し、日本の発展に大きく貢献たと言われます。
ムダ金は使わず、一方、将来への投資には大金をだす、投資家として優れた目をもった堺商人。
江戸時代の作家 井原西鶴は、著書「日本永代蔵」の中で、堺商人を絶賛しています。
堺に生まれた有名人に、千利休(茶人、1522~91年没)がいます。
茶の湯の一つの形式である侘茶(わびちゃ)を完成させました。
茶の湯は、当時、高価な中国製の茶器を自慢し合うお金持ちの楽しみだったそうです。
利休は、簡素な日本の茶器を使い、質素・倹約な禅の精神を取り入れました。
そう言った、不完全なモノの中に、モノが本来持つ、美しさ見出そうとしたそうです。
これにより、茶の湯は一般大衆にも親しみまれ日本中に広まりました。
堺市は(政令)指定都市ですが、私の住む地域には、日本に失われつつある「ご近所」の精神が残っている気がします。
私の知る仲間は、耳の痛い、ある種面倒くさい問題からも逃げずに、困っている人や仲間に手を差し伸べます。
互いに助け合い、切磋琢磨して商売をしてきた商人の気質が、今もこの街に生きているのかもしれません。
最後に
私は堺の街や人に、自由な空気を守ろうとする、誇りやひんのようなものを感じます。
住んでいた海外の街々に似たオープンさを感じ、もはや半外国人の私にも居心地良く感ます。
海外や日本各地に飛び出し、日本の発展に貢献してきた堺商人の歴史的なものなのでしょうか。
この街が、これからの日本が目指す、モデル都市になる事を願います。
最後まで読んで頂きありがとうございました