このブログは、難病やサルコイドーシス(サ症)の仲間に向け書いています。
ここでは、私がサ症を受入れてきた体験談、その過程で気付き、得たことを記事にしました。
サ症になって一番、苦労したのは「病気を受入れる=病気に慣れる」ことでした。
逆に言うと、ある程度、病気を受入れらると、日々の生活がずいぶん楽になりました。
私の一経験ですが、何かのご参考になれば幸いです。
初めまして、モモタ侍と申します。
3年半前、突然、サルコイドーシス(サ症)と言う指定難病になりました。
サ症*は、体中にできる肉芽(にくげ)と言うできものが、体の正常な機能を妨げる病気です。
症状は人それぞれですが、私の場合、痛み、しびれ、疲れ がつらい自覚症状です。
*サ症の詳細は、難病情報センターHP→ さ行→84サルコイドーシス をご参照下さい。
難病を受け入れる大切さ
私のサ症は、全部の臓器にありますが、結局、一番辛いのは、痛み、疲れ などの自覚症状です。
この辛い自覚症状は、日常生活で経験出来るものではない為、なかなか周囲の理解が得られません。
例えば、私が経験した、サ症の疼痛(とうつう)は以下のようなものです。
- 漠然と胸を中心に鈍い痛みがあるが、その部分が特定できない。
- 痛み止めが効いて来て初めて、痛かったのだ、と自覚できるような痛み。
- 触れるとピリピリするような痛みもあれば、どんよりした鈍痛もある。
- 痛みの箇所が移動する。
しかし、ここまで書いても伝えたい事の半分も伝えられていません。
また、この状況を人に説明しても、「痛みや疲れは私にもある」「気のせいなのでは」となります。
結局、理解してもらう事を諦め、挙句の果てに、自分をだまし、健常にふるまってしまいます。
しかし、これが最も危険な事で、難病は確かにそこに存在します。
私自身、この失敗により病気を増悪させ、命を更に削ってしまいました。
それ故に、とても勇気のいる事ですが、自分の病気を理解し、受入れる事がとても大切だと思います。
「受け入れる」ための心構え
受け入れるポイントは「時間の経過」、「比較しすぎない」そして「自分を信じる」事のように思います。
尚、「自分の病気を知ること」も大切ですが、これは、下記をご参照頂けると幸いです。
時間の経過
病気を受入れるのに大切なものは、まず「時間の経過」だと思います。
私のサ症は急性だった為、以前の健康な体を失った事が、頭で理解できず苦しみました。
頭は、病気前のような体の認識、でも、実際の体は、その認識についてこれない。
そのジレンマに、ストレスを感じ、何度も泣きたくなりました。
また、難病特有の体調の波も、病気を受入れる邪魔をしました。
体調が良い時期は、健康そのもので、難病が治ったのでは?と大喜びします。
その後、悪い時期がきて、痛みや疲れで、地獄に落とされ憂鬱な日々を過ごします。
この体の好不調の波=天国と地獄の繰返しには、長く苦しめられました。
しかし、徐々に頭と体の動きが一致し、体調の波による一喜一憂にも慣れてきます。
時間の経過が、病気を受入れる為には必要です。
焦る気持ちを、しばらく横に置いて、じっくり病気と向き合う時間を作ってあげてください。
比較しすぎない
サ症になって、体力が衰えたのは、否めない事実です。
発症後、しばらく「昔はあんな健康だったのに」と、昔と今を比較してクヨクヨしていました。
しかし、よく考えると、健康とは簡単に数値化出来ない性質のものです。
仮に数値化出来ても、今と発症時では、既に何歳か年を取っており、正確な比較になりません。
また、人は昔を美化する傾向があるので、本当に昔は健康だったかも怪しいものです。
今となっては、病気前と今を比較すること自体意味があるのか?疑問に感じています。
現に、休職をして生活にストレスが少ない今の方が、心は元気な気がします。
体力についても、ステロイドによる骨粗しょう症対策で、毎日散歩をしている今の方が、太ももの筋肉がついています。
人は「比較」するのが好きな生き物で、比較により、得られることも多いでしょう。
しかし、私のサ症に関しては、以前との比較より、今後、前を向く習慣づけの方が、良い効果をもたらしています。
自分を信じる(可能性を諦めない)
これは、私の在籍する、市の難病・障害者当事者委員の仲間から頂いた言葉です。
その方は、手足や目が不自由で、ヘルパーさんのサポートを借りて車椅子で生活をされています。
私は、最初、その様子から、ご不便が多くて大変だろうな、と勝手に決め込んでいました。
しかし、その方の言葉や生きる姿勢から、毎回、元気や勇気をもらいました。
ご高齢ですが、最近、トレーナーの勧めで水泳を始めたら、体の痛みが大幅に改善したとのこと。
見ていると、その他にも新しい挑戦やアイデアに溢れていると感じます。
「自分の可能性を諦めないで暮らしたい」と、いつもおっしゃっています。
”難病=一生付き合って行く病気”と言う定義は、ネガティブな聞こえに感じます。
しかし、自分の可能性を信じて生きれば、難病を友として、前向きに進める気がします。
「受け入れる」訓練
「受け入れる」訓練は、病気だけでなく、皆に必ずやってくる老いにも有効と感じます。
ここでは、病気を受入れることで、出来た良い経験についても書いています。
老いを受け入れる
ここ数年、身近な人達の老いを通して、いろいろな姿を見てきました。
自分に都合の悪いことは受入れず(きれいに忘れ)、都合の良い事だけ覚えている。
内向きには、社会常識やルールを無視した行動が目立つ。
一方、外向きは誰にでも良い顔をする。
こう言った姿は、見ていてあまり気持ちの良いものではありません。
しかし、これは人間が老いて行く過程において普通の姿なのだと本に書かれていました。
社会の常識やルールに対し鈍感になり、自分に都合よく解釈するのは、老いの一般的特徴だそうです。
そう聞くと、確かに、自分がそうならない自信は全くありません。
ただ、サ症での経験を活かし、老いも出来るだけ自然に受け入れていければ、と思います。
視野が広がった
病気を受け入れて行く中で、自分の視野が広がる経験をしました。
サ症で全てを失い、気持ちのやり場に苦しんだ時期があります。
自分は、会社の為、後進の為にと信念を持って働いてきた。
にも拘わらず、信念と現実のギャップを埋められず、ストレスが一因で難病になった悔しさ、情けなさ。
自分の努力が報われなかった怒りの矛先をどこに向ければ良いか?
しかし、4年経った今、それは会社と言う村社会しか知らない、自分の狭い了見だったように思います。
病気を受入れる過程で知り、見てきた世界や価値観は、もっと多様で寛容なモノでした。
難病になって良かったとは思いません。
しかし、難病を通して視野が広がったのは確かな気がします。
最後に
何か新しいことを受け入れることに、人は抵抗を感じます。
たとえ、受入れたつもりでも、いざとなると心が抵抗していたりします。
そして、それは老いとともに更に難しくなる気がします。
病気を受入れることも、同じことだったように思います。
最後まで読んで頂きありがとうございました。